自ら命を絶って亡くなられる方のニュースを耳にして
「一言相談してくれたらよかったのに」
「死ぬくらいなら他にできることがあっただろうに」
と言う方がいます。
こんな言葉を聞くたびに、
死にたいと思ったことのないお気楽な人が
「自殺がいかに悪いことか」を偉そうに語るのを聞くたびに
ほんと、ムカつくんですよね。
助けられなかった人が
理解者ぶってるってどうよ
こういう人たちって
「自分が力になってあげられなかったせいかも」という一抹の後ろめたさを
「自分だったら助けられたかもしれなかった(のに、頼ってこないで死を選んだあいつが悪い)」と、
ただ正当化しようとしているにすぎないのではないでしょうか。
亡くなってしまった人に手を差し伸べたわけでもない外野の人間が
被害者ぶって、遺された悲しみや
どうすれば死ななくて済んだかを延々と論議している。
これほど愚かなことはないよなぁと、憤りを感じます。
気晴らしや悩み相談で晴れるなら
死にたいとは思わない
わたし自身も、メンタル不調や人生に行き詰まって
幾度となく死にたくなる衝動に駆られることがありました。
が、人に相談したいとか
話を聞いてわかってほしい、スッキリしたいと思った事はなかったように思います。
(あくまで自分の場合は、ですが)
悩み相談では
根本的解決にならない
自治体や国などでも
自殺予防のための相談窓口が多くありますが…
一度や二度、他人に話しただけでスッキリ晴れるくらいなら
そもそも自分の命を終わらせてしまうほど悩んでいないはずで。
むしろ、冒頭で述べたような
「生きていれば何でもできる」とか思慮もなく言えてしまうような人に
悩みや苦しみを吐露したところで、
「みんな悩んでいるんだから一緒だよ!」と一蹴されたり
「そんなの苦労のうちに入らないよ!俺(私)なんて…」とか、逆に上から説教されて
晒し損した気持ちになるとか、余計に死にたくなることすらあるでしょう。
健康に生きているうちは
本気にされない
死んでしまったから大事(おおごと)になっていたとしても
健康に生きている間というのは、深刻に悩んでいることすら
他人にはなかなか理解してもらいにくいものです。
(だからこそ、リストカットやODをして分かってもらおうとする人が一定数いるのでしょう)
死ですら本人の意思
基本的に、自立した人間は
自分の行動を自分で決める権利と義務があります。
ですから、極論ですが
自ら死を選んだのも、最終的には本人が決めたこと。
他人が介入できることには限りがあります。
「死にたい」いう思いすら
本人が決めてとった行動である以上、
本来は他人が価値観を押し付けて阻害すべきではないと思うのです。
(ただ、電車に飛び込んだり、建物に火をつけていいかというのは別問題ですが)
助けられなかったことを過剰に悔いることや
本人が選んだ選択を(死んでもなお)あれこれ責めるのは
なんか違うよなぁと感じます。
死なないのは本当にいいこと?
冒頭で述べた人たちの根底には
「死ななければオッケー」
「自殺者が出ない=良いこと」
という、まるで自殺者が一人で勝手に悪いことをしたような考えがあるのでしょう。
死ぬのを止めさせても
根本的解決にはなっていない
たしかに、死にたい人が自殺を思いとどまれば
電車も遅延しないし
遺された人たちに悲しい気持ちが残ることもない。
一見すると真っ当なようですが
もし仮に、自殺をなんとか思いとどまらせたとしても
当の本人からすると、死にたくなるような目の前の現実
(あるいは死にたいと思ってしまう精神状態)ってなんら変わっていなくて
なんなら、そんな死にたくなるほどの現実が明日からも続くわけですよ。
死ぬのは一瞬だけど、
「死なない」は、いつまでも続く。
「自殺させない」は
周りにとって都合がいいだけ
つまり、周りにとっては平和に収まってハッピーエンドに見えても
本人にとっては、根本的な解決にはなっておらず
その苦しみから逃げられずに耐え続ける日々が続く、
「生き地獄に引き戻された」といっても過言ではありません。
「生きていてくれたら何でもいい」って
ドラマのような美しい話ではなく
ただ、死にたくなる現実の中に投げやりに生かしておくという、
周りにとって都合がいいだけでしかなかったりするのです。
死にたくなるには理由がある
しかし、わたしは「だからどんどん死ねばいい」とか
「死にゆく人は放っておけ」「人には相談するな」と言いたいわけでは当然なくて。
むしろ、人の死に介入するくらいなら、
死にたくなる根本的な理由に向き合わないと意味がない。
という提案です。
自殺を止める、というのは
ただ単に、首吊り台から降ろすだけではない。
自殺が悪いんじゃない。
死にたくなるような社会が悪い
生きている者には本来、生き延びたいとか
痛いことや苦しいことを避けたいとか
自分の身体を守りたい、傷つきたくないという本能が備わっています。
それを差し置いてまで死にたいと思ってしまうのって
いじめや失恋や家庭不和、過重な労働やパワハラなど
理由や事情はそれぞれでしょうが
身体的な痛みや苦痛を超える辛い出来事があってこそのこと。
または、本当は頭では生きたいのに
幸福感を感じる感度が鈍くなってしまうがゆえ
虚しさや絶望感、無力感を感じてしまい、死にたいと考えてしまうという
精神的に弱っている場合もあります。
(このブログで主に扱っているのは、こちらの
心の栄養失調ゆえに、死にたくなってしまうほうです)
自殺が残酷だとか痛いとか苦しいとかより
目の前に迫る明日、今この瞬間が苦痛すぎて
自分の感覚ごと、存在ごと消し去ってしまいたい。
つまり、つらい出来事だったり、心の栄養失調だったり
いずれにしても、死にたくなるほどの原因があるということ。
死にたくなってしまったのは結果で、
本当の悪は、そんな思いをさせた社会や環境です。
※ただ、例外として
人を殺してから自分も自殺する殺人犯には共感できません。
他人の自殺阻止に介入するという
本当の意味
だから、
人の自殺を止めて、救世主気取りになりたいなら
もっと根底の、その人が死にたくなる原因にも向き合わなければいけないし
それを「自分のことは自分で何とかしろ」「自己責任」とか突っぱねてしまうのなら
そんな人には、そもそも前述したように
他人の自殺を止める権利はないと思うのです。
それだけ、人の自殺をとやかく言うのは責任が伴うことであって、
一人の人生を救うというのは、容易いことではありません。
そんなことも考えずに
人の痛みや苦しみも想像できずに、正義感だけで
「生きていれば何だってできるのに!」とか平気で言ってしまうような
苦労した経験も思慮のかけらもない人に、相談なんかしたところで
余計に傷つけられるのがオチですからね。
辛さや弱みをさらけ出してくれたことを
まずは尊重しよう
人間、弱みを見せるのも勇気が要ること。
人に悩み相談して弱みを晒したり、他人を巻き込むくらいなら
自分一人の命を終わらせて完結してしまいたい。
(周りが気付かないくらい)前触れもなく命を絶ってしまうのは、そういう
優しくて繊細で、責任感の強すぎる人に多いのも特徴だったりします。
ですから、もし悩みを打ち明けられたとしたら
自殺を止める止めない以前に、
あなたに打ち明けてくれたその勇気だけでも、尊重してあげたいものです。
もしかすると、話を聞いてあげたところで自殺してしまうかもしれない。
だけど、もしかすると
「受け止めてくれた」というひとさじの優しさを感じて
希望を持ち直してくれるかもしれない。
他人ができることって、そのくらい
そっと触れる程度の優しさでしかないんじゃないかなって思うのです。
結論:死なない、じゃなくて
生きる幸せを感じられる社会を
結局、何が言いたいかというと
「自殺を阻止する」じゃなくて
生きていて良かったと思える社会をつくることが
本質的な自殺予防なんじゃないかなって思うのです。
生きている間にできることがある
冷たいことも書きましたが、実は
わたし自身も、親しい知人を自殺で失ってしまった経験があります。
その人は、亡くなる数週間前に、わたしに
「悩んでいるんだよね」と連絡をくれていましたが
その時は、死を覚悟しているほどだとはわかりませんでした。
自分にもっと何かができたんじゃないか、とか
(こういう発信をしているので)ためになるアドバイスができたかもしれないのに…と、ひどく後悔しましたが
どんなに償っても、反省しても、自分を責めても、その人は帰ってきません。
が、同時に
わたしがどんな言葉をかけてあげたところで
その人を取り巻く目の前の環境は変わらなかったでしょう。
だから、故人を前にあれこれ嘆きたくなる人の気持ちもわかるけど
自分に何かができたかのような偉そうな口ぶりの人には、腹が立つのです。
こうして書いている以上、五十歩百歩かもしれませんけれどね。
どう死ぬかより、どう生きるかが
人生の質を決める
人間、誰だっていつか死にます。
自殺イコール必ずしも不幸で
他の死に方イコール幸せなわけでもないだろうし、
長生きすればするほど幸せとは限らないかもしれない。
そして、究極は自分の人生の舵を取れるのは自分だけ。
他人の人生に介入して何とかしようとすることも、
自分の人生を救ってもらおうとか、誰かに丸ごと面倒を見てもらおうとするのも
本質からは外れてしまっているんじゃないかなと思います。
(日常生活の介助が必要な方はもちろんこの限りではありませんが)
そりゃ、誰もが幸せを感じられる社会なんて難しいけど
自殺を選んでしまった人を無責任に責めて嘆いて自己を正当化するのではなくて
死にたくなるような要素が少しでも少なくなるような世の中を一人ひとりが創っていくことが
遺された人ができる供養なんじゃないかなって。
死ぬのはほんの一瞬の出来事。
それよりも、命があるこの瞬間、何をしてどう感じるのか
その方が人生の本番であって、大事なんじゃないでしょうか。
わからない人には、一生わからないかもしれないけれど
わたしはそんなことを考えながら
本質的な心身の健康を願って発信を続けています。
記事の内容について
この記事は医療従事者が執筆していますが、あくまで個人の経験・体感をもとに書いたものであり、特定の疾病の診断や治癒、すべての方へ効果効能を保証するものではございません。
掲載内容の実践にあたっては一切責任を追いかねますので、内容をよく吟味のうえ、自己判断でお願いいたします。